米の手助け (from h2)

 私は、半趣味の一つとして、米百姓をやっています。 %B0%F0.JPG この伊賀の地は、一日の寒暖の差が大きく、綺麗な水と、古琵琶湖の扶養な土が美味しい米が出来る素養となっています。  私もこれまで、伊賀米コシヒカリを収穫して、人に食べて頂いたりしていますが、(外交辞令かもしれませんが) 美味しいとの評判を貰っています。  始めは稲を育てるんだという気持ちで、水を調整したり、肥料や病虫害の駆除を行っていました。 今に至って (5年経過して) 自分は勘違いをしていたんじゃないか。 稲を育てているとか、米を作っているという気持ちは、高慢な事ではないか? と思うようになってきました。  稲は、春に種から芽を出し、夏のぎらぎらした太陽の光を受け成長し、秋には黄金の稲穂を作ります。 これは一重に、稲に備わった生命力によるもので、稲は自ら一生懸命生長しようとして、葉を広げて太陽の光を受けている (一生懸命に太陽の光を目いっぱい受けるべく、葉を広げ成長しようとしている) その結果が美味しいお米となるのですね。  あらゆる生命は、自分自身で一生懸命育ち、又、次の代に子孫を残すという、神聖な能力が備わっているのですね。 自分に出来る事は、その目的 (育つ、子孫を残すこと) を達成する為の手助けにしか過ぎないのではないか、と思うようになってきました。  そう考えると、稲は今何をしようとしているのか? そして、その為、何が欲しいと思っているのか、を稲に聞いてそれを叶えてあげるように頑張るのが、百姓の仕事のように思います。 そうする事により立派なお米となるのでしょう。  気象予報士の誰かが言っていましたが、台風の気持ちになれば台風の進路がわかる。 それと同じように、稲の気持ちを、その時の気温や湿度、葉の状態、成長度合いなどから汲み取れるようになれれば、米百姓だと、声を大にして言えるようになれるのでしょう。  この事は、稲だけでなく、親と子・先生と生徒・上司と部下などの関係についても言えることなのではないでしょうか?
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